縁起/ゆかりの唐僧
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瓢箪「隠元さん」ゆかりの唐寺 興福寺

境内港を見下ろす風頭山の山麓に寺院が並列する寺町通り。そのなかほどに、広いゆったりとした南方風の境内をもつ興福寺は、かつて日本のなかの中国だったのです。
雄大な朱色の山門により「あか寺」として市民に親しまれ、長崎を訪れる多くの人々が立ち寄る興福寺は、我が国最初の黄檗禅宗の唐寺で、開祖隠元(いんげん)禅師が、中国より初めて日本に渡海され住持した宝地であり、眼鏡橋を架けた黙子如定(もくすにょじょう)禅師、近世漢画の祖逸然(いつねん)禅師など、そうそうたる中国高僧が住持したことでも知られます。このように、日本黄檗宗発祥の地、隠元禅師初登の聖地というユニークな歴史を記した全境内は、現在、県の史跡として保護されています。

興福寺の由来は、中国・明の商人が長崎に渡来しはじめた頃の元和六年(1620)、中国僧真円が航海安全を祈願してこの地に小庵を造ったことに始まります。江戸時代初期の長崎は、幕府の朱印船、唐船貿易の奨励により、ヨーロッパ諸国、イスラム、アジアなどの冒険商人や物資が集まる国際都市となりましたが、なかでも中国からの来航者は圧倒的に多く、市民の6人に1人は中国人というほどで、出身地別に寺を建立したのが興福寺をはじめとする崇福寺、福済寺などの長崎唐寺(とうでら)の始まりです。
また、この時代は、キリスト教禁令が厳しくなり、長崎在住の中国人にもキリシタンの疑いがかかったため、仏教徒であることを誇示するためにも、つぎつぎと唐寺が建てられたともいわれます。

境内1641年に確立し、200年あまり続いた鎖国時代、中国とオランダのみに門戸を開いた唯一の開港地長崎では、市民一丸となって貿易に従事し、貴重な海外の文物を日本にもたらしました。とりわけ唐船の活躍はめざましく、長崎はおおいに潤い、南京を中心とした大船主や貿易商を檀家とした興福寺は最盛期を迎え、大きな堂宇が建ち並び、僧俗男女が参集する禅の一大センターとなリました。
江戸時代の長崎は幕府直轄地として、幕府が任命する奉行、目付などが置かれましたが、貿易都市として外交、行政、通商を直接担当して実力があったのは地元長崎人でした。この中にあって、外交官的役割を担って活躍したのは、唐通事、阿蘭陀通詞と呼ばれる人々で、興福寺の有力檀家衆の家系からも高名な唐通事が輩出し、代々興福寺を支えたと伝えられます。
唐僧の渡来は、1700年代中頃にはなくなり、九代竺庵和尚以後の10代より日本人が住職となり、現在32代に至ります。

幕末より今世紀へかけての急速な近代化、日清戦争、日中戦争、世界大戦などにより長崎は大きな影響を受けました。興福寺も、帰国や離散などにより戦後は中国人檀家はわずか数軒となりました。しかし、幸いにも、長崎原爆で大きな被害を受けたものの焼失をまぬがれ、ゆったりとした往時の唐寺の雰囲気を今に伝えています。

瓢箪隠元禅師と黄檗文化の渡来

隠元禅師日本黄檗宗の開祖隠元禅師は中国から承応三年(1654)長崎へ渡来、興福寺住職として滞在された。当時、我が国の臨済・曹洞の禅宗は、その法式正伝が衰退し再興が望まれていたが、中国では、福建省黄檗山の万福寺が臨済宗の代表的な道場として活動しており、住職として禅界に重きをなす隠元禅師の名声が日本に伝わってきた。そこで、日本の禅僧たちは、隠元禅師の日本招請を願い、長崎三唐寺と檀家衆が中心となり、3回も中国へ赴いて来日を懇願したため、高齢 63歳の隠元禅師はついに渡海を決心された。時代は、明代末期の争乱時代、禅師のために中国・廈門(アモイ)より船を仕立てたのは、明の救国の士として高名な鄭成功だった。禅師と弟子20名余の一行は7月5日長崎に入港、翌6日に招請の中心となった興福寺第三代逸然禅師と唐僧たち、長崎奉行、多くの檀徒に迎えられ興福寺に進山、18日開堂演法された。聴衆は僧俗数千、長崎奉行も参謁したと記される。翌年には、崇福寺にも進み、2ヶ月住して法を説かれた。
禅師の名声は日々に高くなり、その新鮮な明朝禅と徳を慕って各地から何百人もの学徒が参集したため、興福寺では、外堂など建て増して彼らを住まわせたという。
また、諸国より寄せられた寄進により山門を建て、隠元禅師自ら筆をとり「東明山」の額を書かれたので、これを興福寺の寺号とした。この額は今も山門に掲げられているが「祖道暗きこと久し必ず東に明らかならん」という意味の規模壮麗なもので、隠元禅師をもって、興福寺中興の開山とするゆえんである。
長崎滞在一年後、禅師は、京都妙心寺竜渓禅師らの懇請により上京、将軍家綱に謁し、勅を承けて日本に留まる決心を定め、寛文元年(1661)、京都の宇治に故郷黄檗山の山号寺号にちなんだ同じ名の黄檗宗大本山万福寺を開山、僧俗貴賤多くの人々と交わり、慕われて81歳でこの地に永眠された。
禅師は、皇室、幕府要人など公武の尊敬をうけておられたが、死の前日には、親しく交流された後水尾上皇より特に「大光普照国師」の号が贈られた。
日本には古くから、中国文化への憧憬があったが、鎖国によりその見聞は禁じられていた。そこへ、大明国の文化を背景にもつ高僧隠元禅師の渡来である。黄檗宗を通じて皇室、将軍家、武家、寺院などが採り入れた新鮮な明朝文化が日本の建築、彫刻、書画、茶道、料理などに与えた影響は計り知れない。
禅師は、没後も五十、百、百五十回忌に時の天皇より国師の号を授けられたが、隠元の名が決して遠い過去のものではなく、いまなお日本が敬意を表していることは、昭和47年(1972)3月、昭和天皇より「華光大師」の号を授けられたことでも明らかである。

瓢箪眼鏡橋を架けた第二代黙子如定禅師

黙子如定禅師寛永九年(1632)渡来された興福寺第二代黙子如定禅師は、本堂の建立、諸堂伽藍、山門の完成に力を注いだ。11年には、興福寺への参詣者のために、参道を横切る中島川に、長さ23メートル、幅4.5メートルのアーチ型の石橋を架設した。これを記念して最近、黙子如定の像が橋のたもとに建てられた。 橋は、たびたびの大洪水で修復されているが、日本における中国明朝式石橋として最初のもので、以後石橋技術の規範とされ全国に影響を与えた。満潮のとき橋影が川面に映り、双円を描くのが眼鏡に似ているため「眼鏡橋」と呼ばれる。国指定重要文化財に指定されている。

瓢箪近世漢画の祖 逸然禅師

逸然禅師正保元年(1645)に渡来、興福寺第三代住持となられた逸然禅師は、隠元禅師招請の中心となった功労者だが、絵に秀で、とくに仏像、人物が巧みで、その門下から渡辺秀石、河村若芝などの名手が輩出し、近世漢画いわゆる唐絵(からえ)と称される長崎系絵画が発達した。また、書もよくし、象嵌、篆刻にも優れていた。 中国では明末に篆刻が盛んに行われ、初期黄檗僧が用いた見事な印章は書を引き立たせ、わが国に篆刻の楽しさ、印章の美しさへの目を開かせた。