大雄宝殿(本堂) 国重要文化財
寛永九年(1632)第二代黙子如定禅師が建立、のちに大火で類焼、元禄二年(1689)再建、慶応元年(1865)暴風のため大破し、さらに明治十六年(1883)に再建し現在に至る。堂外の正面高く隠元禅師筆の「大雄宝殿」と大書した扁額を掲げ、表廊下は吹き放しで入口は折扉。堂内は煉瓦敷きで正面壇上に本尊釈迦如来、脇立は準提観音菩薩と地蔵王菩薩を祀る。本堂を大雄宝殿と呼ぶのは釈迦(大雄)を本尊として祀ることからくる。
ほとんどが中国工匠による純粋の中国建築で、資材も中国より運送したもの。その形式はおおらかな重層切妻造りで、内装、外装ともに中国明清風をとりいれ、柱や梁には、人物、鳥獣、花が彫刻され、とくに、氷裂式組子の丸窓、アーチ型の黄檗天井、大棟上の瓢瓶などは珍しい。中国南方建築の代表作とされ、明治時代の建築でありながら、戦前より国宝に指定され、現在は国重要文化財。
瑠璃燈(本堂内) 市有形文化財
大雄宝殿の中央高く懸けてある瑠璃燈は、上海より運ばれ、堂内で組み立てられた。中国工匠による作で、巻蛇、人物などの彫刻は精緻を極め、清朝末の優れた工芸品の系譜に属する。日本に現存するこの種のものの中でも最大。灯籠の周囲に従来の紙や絹を使わず、ガラスを使っているのが当時の国際都市上海の西洋趣味をうかがわせる。形状は高さ2.18メートル、経1.31メートル。
媽祖堂(まそどう・ぼさどう) 県有形文化財
媽祖(媽祖)とは「菩薩」「天后聖母」などとも呼ばれる航海の守護神で、中国宋代に福建省に起こった土俗的信仰だったが、元代には江南から北京へ糧米を運ぶすべての船舶に祀られた。明代、鄭和の南海遠征や外国貿易の進展に伴い、台湾、日本、朝鮮半島、東アジアの全域に伝播された。長崎へ来航する唐船には必ず「媽祖」が祀られ、停泊中は、船から揚げて唐寺の媽祖堂に安置した。これを「菩薩揚げ」といい、賑やかに隊列を組んで納めたという。興福寺は、寛文三年(1663)の市中大火で境内の建物はことごとく焼失した。媽祖堂再建の年代は諸説あるが、寛文十年(1670)の扁額「海天司福主」が現存することから、この頃に整備されたものと考えられる。向拝、船底形本尊は、天后聖母船神で、脇立はふつう赤鬼青鬼と呼ばれる千里眼と順風耳。建築様式は和風を基調とし内外総朱丹塗、黄檗天井の前廊、半扉、内部化粧屋根式天井など黄檗様式を加味し、また軒支輪のある建物は珍しく、貴重な建築資料である。
媽祖(まそ・ぼさ)
媽祖堂(まそどう) 命がけの航海をした時代、長崎にやってくる唐船には守護神「媽祖」が祀られ、香花を供する者、太鼓役が乗り組み昼夜手厚く奉仕して航海の安全を願った。長崎に唐寺が建立されるのも、船が長崎に入港し、荷役を終えて出航するまでの間大切な媽祖さまを安置して礼拝するお堂が必要となり、媽祖堂を建てたのが始まりだといわれる。「媽祖」は中国福建語で「母屋に在る」という意味があり、常に温かく受け入れてくれる母性を感じさせる。伝説によれば、媽祖は、宋代の始めの西暦960年(日本の平安時代)3月23日に、福建省興化府甫田県の東南の海に浮かぶ眉州島(めいしゅうとう)に漁夫の林家の娘として生まれ、西暦987年9月9日に昇天した実在の女性。幼い頃から聡明で、15歳の時には儒教、仏教、道教の三経に通じ、超能力に優れ、海難事故から多くの人を救ったという。そして、28歳の時、「人々を救わん」と、泣きながら押しとどめる家族に別れを告げて、海上を歩き眉山に登ると、足下から風が起こり雲が生じて媽祖をつつみ、媽祖は光り輝く五色の雲に乗り神となって昇天したと伝えられる。こうして、媽祖は生前の神通力が、神となってさらに強力になったと信じられ、とくに航海に携わる人々の信仰を集めるようになった。中国歴代王朝は、媽祖に神号を贈って大切に祀り、長崎貿易盛んな清時代には「天后」の位を贈り、孔子、関帝(三国時代の英雄)と同列の式典を認めた。興福寺の媽祖像の先達を務めて立つ二鬼神。大きな耳を持つ「順風耳」(じゅんぷうじ)は千里先の風向きを予知して、媽祖に伝え、一方三つの目を持つ「千里眼」(せんりがん)は千里先を見通して媽祖を守護する。もともと悪さばかりする二人を、媽祖が改心させて忠実な部下となったという。媽祖像は、東南アジアを中心として、世界中に祀られているが、東明山興福寺の媽祖さまは、どっしりとした母性と金箔で覆われているのは珍しく、唐貿易のよき時代の船主たちの、いやがうえにも立派に、という心意気が伝わってくるようだ。
鐘鼓楼 県有形文化財
鐘鼓楼寛文三年(1663)の市中大火のあと元禄四年(1691)に五代悦峰禅師が再興。後に日本人棟梁により享保十五年(1730)重修、その後もたびたび修理が加えられた。建築様式は和風で、二階建て上階は梵鐘を吊り太鼓を置き、階下は禅堂とした。梵鐘は戦時中に供出して今はない。上層は梵鐘、太鼓の音を拡散させるため、丸い花頭窓を四方に開き勾欄をめぐらせ、軒廻りには彫刻をほどこし、他の木部は朱丹塗。屋根の鬼瓦は外向きが鬼面で厄除け、内向きが大黒天像で福徳の神という珍しいもの。「福は内、鬼は外」の意味と解される日本人棟梁の工夫である。
三江会所門(さんこうかいしょもん) 県有形文化財
三江会所門三江(江南・浙江・江西)出身の中国人にとって、興福寺は創建以来の菩提寺であり、同郷会館でもあった。明治元年(1868)唐人屋敷の処分が始まり、同年、彼らは興福寺境内に三江出身者の霊をまつる三江祠堂を建て、明治13年には、新たに集会場として三江会所を設置した。
会員は貿易額の0.5%を積み立て、また境内の畑地に借家を建てるなどして収入を計り経営維持を行った。会所には厨房もあり、法事や会合に賑わったが、原爆により大破し、門だけが遺存する。中央に門扉、左右は物置の長屋門式建物で、門扉を中心に左右に丸窓を配し、他は白壁、門扉部分上部の棟瓦を他より高くした簡素清明な意匠。肘木(ひじき)、虹梁(こうりょう)、彫刻など細部手法は純中国式で、大雄宝殿と同じ中国工匠の手になるものと思われる。敷居は高く、これは、豚などが門内に入らないよう工夫した「豚返し」と呼ぶ中国の様式。
山門 県有形文化財
山門二間三戸八脚の入母屋造単層屋根・総朱丹塗りの豪壮雄大な山門は長崎で第一の大きさを誇る。山門は、初め承応3年(1654)隠元禅師の長崎滞在中、諸国より寄せられた多大な寄進で建てられたが、9年後の長崎大火で山門もろとも一山全焼した。現在の山門は、元禄三年(1690)に、日本人工匠の手で再建されたもので和風様式を基調とする。原爆で大破したがその後復元した。山門上部の扁額「初登宝地」「東明山」は隠元禅師の御書。
旧唐人屋敷門(長崎市所有) 国重要文化財
旧唐人屋敷門寛永18年(1641)出島にオランダ人が収容されたが、約50年後、市内に散宿していた唐船主以下中国人も民宿を禁じられ、元禄二年(1689)、十善寺郷(現在の館内町)に収容された。この処置は、密貿易を防ぐためともいわれたが、外出は比較的自由で、約一万坪の広大な敷地内には住宅、店舗、祀堂などが軒を連ね一市街地を形成し、唐館あるいは唐人屋敷と呼ばれた。当時の建物は大火や移転などで何一つ残っていないが、この唐人住宅門だけが民家の通用門として遺存していたのを、昭和三十五年、保存のため中国にゆかりの深い興福寺境内に復元した。扉は二重で内門は貴人来臨専用だった。用材は中国特産の広葉杉、柱上部の藤巻、脂肘木、鼻隠坂、懸魚などに中国建築特有の様式が見られる。建築年代は不明だが、天明4年(1784)の唐館全焼の大火以降のものと推定される。
中島聖堂遺構大学門(長崎市所有) 県有形文化財
中島聖堂遺構大学門東京の湯島聖堂、佐賀県の多久聖堂とともに長崎聖堂は、日本三聖堂のひとつで最も古く由緒あるもの。儒者向井元升が正保四年(1647)に聖堂・学舎を開いたことに発し、大火類焼、一時衰退などあったが、元升の子元成が京より帰来したのでこれを迎えて再興、聖堂を正徳元年(1711)に竣成した。長年、中島川のほとりにあったので「中島聖堂」と呼ばれた。聖堂は長崎奉行の保護下にあり、壮大な構えであったが、明治初年に廃滅し、杏檀門と規模縮少した大成殿を遺すのみとなったので、昭和三十四年保存のため興福寺境内にに移築。門扉に大学の章句が刻まれているので大学門と呼ぶ。
魚板(鰍魚)
魚板庫裡の入口にさがる巨大な魚鼓は、本式の呼び名を「はんぽう」といいお坊さんたちに飯時を告げるため叩いた木彫の魚。このような魚板は禅寺によくあるが、興福寺のものは日本一美しいと定評がある。長年叩かれたので、腹部は凹んでいるがこの音は案外遠くまで聞こえ、山裾までとどいたそうである。もうひとつ並んでさがる小振りの魚板は雌で、雄雌一対で懸けられるのは大変珍しい。中国の代表的な魚である鰍魚(けつぎょ)を象り、口にふくむ玉は欲望、これを叩いて吐き出させるという意味をもち、木魚の原型とみなされる。明朝の風格をうかがわせる魚板は興福寺のトレードマークとなっている。
黄檗宗祖隠元禅師東渡三百五十周年記念碑
「鳥唱千林暁」「慧日正東明」「花開萬国春」
隠元禅師の筆になる上記三幅対は興福寺に伝えられ、長崎市有形文化財指定。 隠元禅師はその後来日した弟子の木庵、即非とともに黄檗三筆と称され、筆勢豊かで格調高い黄檗の書風が日本の書に新風を吹き込んだ。 禅師東渡三百五十周年にあたる平成16年(2004)、黄檗宗西日本協議会がこの三幅対を記念碑として建立、禅師長崎上陸の吉日7月5日に、当山で除幕式が行われた。 記念碑の原石は禅師の古里中国福健省産で現地石工により隠元真筆が再現され当山に運ばれた。
斉藤茂吉の歌碑
斉藤茂吉の歌碑「長崎の昼しづかなる唐寺や 思ひいづれば白きさるすべりの花」
山門を入るとすぐ木立の中にたつ歌碑は、茂吉が、人けも絶えた夏の午後の静かな唐寺の趣きを歌ったもの。茂吉は、長崎医専(医大)教授として大正六年(1917)冬から三年三ヶ月長崎に住んだ。長崎へは与謝野寛・晶子夫妻、北原白秋、木下杢太郎、吉井勇、若山牧水など多くの歌人が訪れ、その旅情を歌に残している。
虚子・藺花の句碑
「俳諧の月の奉行や今も尚 」 虚子
「去来二百五十年忌に値遇の縁」 藺花
昭和29年(1954)、俳人向井去来の250年忌がゆかりの地長崎で行われ「ホトトギス」で俳句運動を続けた高浜虚子、長崎俳壇のリーダー鍬先藺花が記念の句を寄せた。5年後の昭和34年(1959)、同門の道祖尾万水(さいのうばんすい)の寄進で句碑となり、興福寺本堂前に建立された。 松尾芭蕉十哲の一といわれた去来は、「西三十三箇国の俳諧奉行」と称され芭蕉から厚い信頼を受けていた。虚子の句は、これを踏まえて秋に死去した去来を「月の奉行」とうたい、今なお慕われる偉大な先人を偲んだ。芭蕉は長崎に憧れつつ西国に向かう途中、病を得て惜しくも大阪で客死した。
有馬朗人の句碑
「長崎の坂動き出す三日かな」
坂の町長崎の迎春風景を詠んだ句。作者の有馬朗人氏は俳誌「天為」主宰、原子物理学者として国際的に活躍、句碑建立当時は文部大臣の要職にあった。中国の歴史文化に造詣の深い有馬氏の句碑をぜひ唐寺に、という「天為」長崎支部の宮田カイ子氏らの熱意により当山に建立。平成11年1月31日の句碑除幕式は、有馬朗人・ひろこ夫妻を囲み全国より百名ちかい門人が集いなごやかに行われた。
森澄雄句碑
「山門は 隠元自筆 鳥雲に」
森澄雄氏は俳誌「杉」の主宰、現代俳句界最高の地位にあり、平成18年文化功労賞受賞記念として会の有志の方々が句碑を建立した。森澄雄氏が故郷と仰ぐ長崎に、それも是非とも興福寺にと熱望されての実現となった。興福寺はもとより、長崎にとっても文化遺産が増えたことは大変喜ばしい。
平成8年10月7日の除幕式には森澄雄氏とその門下生の方150名ほど集まっての式が盛大に行われた