ゆかりの唐僧 (1/4)

隠元禅師と黄檗文化の渡来

隠元禅師

日本黄檗宗の開祖隠元禅師は中国から承応三年(1654)長崎へ渡来、興福寺住職として滞在された。当時、我が国の臨済・曹洞の禅宗は、その法式正伝が衰退し再興が望まれていたが、中国では、福建省黄檗山の万福寺が臨済宗の代表的な道場として活動しており、住職として禅界に重きをなす隠元禅師の名声が日本に伝わってきた。そこで、日本の禅僧たちは、隠元禅師の日本招請を願い、長崎三唐寺と檀家衆が中心となり、3回も中国へ赴いて来日を懇願したため、高齢 63歳の隠元禅師はついに渡海を決心された。時代は、明代末期の争乱時代、禅師のために中国・廈門(アモイ)より船を仕立てたのは、明の救国の士として高名な鄭成功だった。禅師と弟子20名余の一行は7月5日長崎に入港、翌6日に招請の中心となった興福寺第三代逸然禅師と唐僧たち、長崎奉行、多くの檀徒に迎えられ興福寺に進山、18日開堂演法された。聴衆は僧俗数千、長崎奉行も参謁したと記される。翌年には、崇福寺にも進み、2ヶ月住して法を説かれた。

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