ゆかりの唐僧 (2/4)

隠元禅師と黄檗文化の渡来

禅師の名声は日々に高くなり、その新鮮な明朝禅と徳を慕って各地から何百人もの学徒が参集したため、興福寺では、外堂など建て増して彼らを住まわせたという。
また、諸国より寄せられた寄進により山門を建て、隠元禅師自ら筆をとり「東明山」の額を書かれたので、これを興福寺の寺号とした。この額は今も山門に掲げられているが「祖道暗きこと久し必ず東に明らかならん」という意味の規模壮麗なもので、隠元禅師をもって、興福寺中興の開山とするゆえんである。
長崎滞在一年後、禅師は、京都妙心寺竜渓禅師らの懇請により上京、将軍家綱に謁し、勅を承けて日本に留まる決心を定め、寛文元年(1661)、京都の宇治に故郷黄檗山の山号寺号にちなんだ同じ名の黄檗宗大本山万福寺を開山、僧俗貴賤多くの人々と交わり、慕われて81歳でこの地に永眠された。
禅師は、皇室、幕府要人など公武の尊敬をうけておられたが、死の前日には、親しく交流された後水尾上皇より特に「大光普照国師」の号が贈られた。
日本には古くから、中国文化への憧憬があったが、鎖国によりその見聞は禁じられていた。そこへ、大明国の文化を背景にもつ高僧隠元禅師の渡来である。黄檗宗を通じて皇室、将軍家、武家、寺院などが採り入れた新鮮な明朝文化が日本の建築、彫刻、書画、茶道、料理などに与えた影響は計り知れない。
禅師は、没後も五十、百、百五十回忌に時の天皇より国師の号を授けられたが、隠元の名が決して遠い過去のものではなく、いまなお日本が敬意を表していることは、昭和47年(1972)3月、昭和天皇より「華光大師」の号を授けられたことでも明らかである。

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